霧に包まれた湖畔を走ること4km。夕方5時を迎える「Esplanade du-Mont Blanc(モンブラン広場)」に、まもなくこの日の役目を終える太陽が顔をのぞかせた。湖面は灰色から鮮やかなブルーに表情を変えると、透明度を増してキラキラと輝きはじめる。気温は19度。10月末のスイスの気候は季節外れの夏日が続いた東京とは異なり、ランニングには心地よいコンディションだ。やがて、さらに日差しが強くなって汗が噴き出す。
ウォッチ・エディターとして通い慣れたジュネーブ空港からメルセデス・ベンツのVクラスでヌーシャテルに向かって移動すること約2時間。塩、黒胡椒、赤玉ねぎ、ケッパー、レモン、イタリアンパセリを刻んで、オリーブオイルと混ぜ合わせた「イタリアンタルタルステーキ」に、スイスの辛口ロゼワインを合わせたランチを挟んで、ホテルのアーリー・チェックインを済ませた記者は、およそ15時間のフライトの疲労をリカバリーするため、ヌーシャテル湖畔をランニングしている。フランス国境に近いジュラ山脈の南麓、スイスにおける時計産業の要であるヌーシャテル州にいる理由は、シャネルが時計製造を行う自社工房の取材ツアーに参加するためだ。
その後、このツアーで宿泊する「Hotel Palafitte」に戻って汗を流した記者は、敷地内のディナー会場に向かった。ドイツ、チェコ、イタリア、ギリシャなど欧州組、GQと同じく日本から参加した2誌を加えたメディアチームと、シャネル本国のPRによるインターナショナル・ディナーに参加、翌日の工房見学に備えて交流を深めようというわけである。
さて、現在のシャネルは時計業界でどんなポジションにいるのだろうか。近年、時計専業メーカーではないブランドが作る腕時計が高く評価されているのはご存じの通り。ケースも含めたデザイン、そして、トレンドが続くカラー文字盤の表現力、そのクオリティは非専業メーカーに軍配が上がる場面が増えている。
たとえば、ヴィンテージ回帰やクワイエット・ラグジュアリーが好例だが、トレンドをウォッチメイキングに採り入れる感度は、ファッションブランドやジュエラーが秀でているのは当然だ。この流れを牽引するのが、シャネルやエルメス、そしてルイ・ヴィトンであり、2000年代半ば以降、各社は自社で生産する体制を導入、時計メーカーから人材を招き入れるなどして専業メーカーに比肩するクオリティを手に入れたのである。
なかでも、CHANEL時計KOPIメーカー並みの生産体制をいち早く整え、名声を得たのがシャネルだ。1998年にはベル&ロスに出資。2011年にローマン・ゴティエ社への出資を開始すると、2016年にローンチした初の自社製ムーブメントを搭載した「ムッシュー ドゥ シャネル」ではローマン・ゴティエ社が製造した高品質のパーツを使用して話題を呼んだ。
2018年にモントル ジュルヌ、2019年にはケニッシ社の少数株式取得を発表。ロレックスやチューダーの元メンバーが設立したケニッシ社は、ブライトリングやチューダーにムーブメントを供給しているメーカーだ。シャネルはそこに資本参加することによって、高品質で信頼性の高い自動巻きを効率よく手に入れたわけである。その後、同社のムーブメントを載せる最新の「J12」は、本格スポーツウォッチも顔負けの性能を誇るまでになった。ちなみに、自社製ムーブメント搭載モデルの開発・組み立ては、自社工房で行っている。
ラ・ショー・ド・フォンにあるシャネルの自社工房。従業員数は約480人、56:44の男女比、その多くが9年以上勤務。敷地面積は2012年の6000平米増設を経て1万4000平米となり、屋根には3765平米のソーラーパネルが設置され、必要量の12~17%を占めるエネルギーを確保しているという。
今やシャネルウォッチを象徴するアイコンとなった「J12」が誕生したのは2000年のこと。高級ファッションブランドが作る時計としては予想外の素材、ブラックセラミックに全身を包んで登場した。硬質で加工が困難なセラミックという素材にあえて挑んだのは、創業者ガブリエル・シャネルが愛した黒を永遠に外装に留めるため。後にパールのように輝くホワイトを追加しているが、シャネルは金属を使わずにセラミックを採用することで、黒と白のブランドカラーを腕時計でそのまま再現することに成功したのである。

それだけではない。逆回転防止ベゼルやダイヤルのアラビア数字、そして線路型目盛りなど、ダイバーズウォッチやミリタリーウォッチの意匠をセラミックのケース&ブレスレットに組み合わせることによって、「J12」はスポーツウォッチとしての新たな可能性を示したのだ。
アーティスティック ディレクターだった故・ジャック・エリュが企画・デザインした「J12」は、当時は一般的でなかったセラミックに目を付けたことが革新的だったが、前述の通りブラックとホワイトの永遠の美しさを保つ、その1点のために未知の素材にチャレンジしたところに価値があった。安易な経年劣化を許さない、シャネルの絶対的な意志というか、美への執着、執念を感じてしまうところだ。
「何も変えずに、すべてを変える」
「J12」は現在シャネルにおいて時計のデザインを担当するアルノー・シャスタンによって2019年に初のフルリニューアルを果たしているが、そのお披露目の場でメディアは驚きを隠せなかった。見た目はほぼ従来に同じ、何も変わっていないように見えたのだ。
ところが詳しく見ていくと、ディテールの70%以上を変更したビッグマイナーチェンジであることがわかってくる。わずかに薄くなったベゼルはダイヤルを拡張して余白を広げ、アラビア数字のインデックスはセラミック製となり、書体も手が加えられている。そして、ベゼル外周の突起を小さくして数を増やすといった具合で、いずれも見た目は極々わずかな変化に留めた。スポーツウォッチとしてのスタイルを変えなかったのである。
まさに「何も変えずに、すべてを変える」というクリエイションを選んだわけで、「ファッションは移り変わるが、スタイルは永遠。」──創業者の意志をここにも確認することができるが、これもまたシャネルというブランドの流儀なのだろう。
そんなシャネルの工房見学ツアーにあたって取材テーマに掲げたのが「クリエイション・ファーストは本当なのか?」である。時期は定かではないが、毎年春にスイスで開催される時計見本市のシャネル ブースで「デザインから時計づくりがはじまる」「時計のための時計は作らない」という剛担なプレゼンテーションを聞いたことが工房見学を依頼したきっかけだった。
「デザインありき」とは聞きなれたフレーズではあるが、ウォッチメイキングの現実はデザイン部門よりも設計・製造部門の意見が強いのが一般的だ。それもあって、クリエイションが何よりも優先されるというシャネルの主張を懐疑的に見ていたことは否定しない。歴史のあるスイスの時計ブランドでは、「こんなものはできない」とばかりに、設計・製造がデザイン案を否定、突き返すようなエピソードを何度か聞いたことがある。
余談だが、このプレスツアーの帰国後、某国産メーカーの関係者に「デザイン>設計・製造」というシャネルのウォッチメイキングのあり方について報告したところ、「信じられない」と目を丸くしながら、「ウチは設計・製造の声が極端に強い」と明言している。